高校バスケ部顧問の体罰による部員の自殺事件が連日報道されています。諸説ありますが、私も思うところがあるので、今日はこの問題について書きたいと思います。

まず私は体罰には反対です。その前提で以下の話に続きます。

自分自身のこと

私は高校時代にスポーツ部に所属していました。事件のような強豪校ではありませんでしたが、学校内でも非常に厳しい部として知られていました。私は怒鳴られ殴られ発奮し頑張っていた立場の人でした。そして人生で最も尊敬と感謝をしている先生はその先生です。

その理由は、自分が限界と思ったところから逃げないこと、もう一歩頑張ることを身につけることができて、それが人生に役立っていると思っているからです。実際に、部活の現役時代は、怒鳴られたり殴られるのは恐れてはいましたが、それ以上に、体力や精神のギリギリのところで頑張った結果、上手になっていくことに充実感も感じていました。

多くの人が辞めていきました。でも殴られて辞めた人より、その前に辞めた人の方が少し多かったような気がしています。はたから見ても、先生が殴って指導するのは、期待されている人だったからです。そこまでいかずにビビって辞めた人が6割、期待に応えられず「殴られてまでなんでやるんだよ」と辞めていった人が4割くらいだったでしょうか。

私がレギュラーにあと少しでなれるという時や、レギュラーだったときは、容赦なく怒鳴られ、技術や精神面の甘さを指摘され、時には殴られました。そして、いいプレーができた時は、「ニヤリ」と笑い「やればできるじゃねーか」的な言葉をかけてくれるわけです。単純な私は、「もっと認めさせてやる」などと思い、また頑張るみたいな感じでした。そしてレギュラー落ちしてからまったく殴られなくなり、少し寂しく感じたことを覚えています。今思えば先生も完全にアウトですし、私の方もよーやっとるわ、という感じです。

子どもはまだ視野が狭い

で、今回の事件のケースについてですが、報道されている内容から想像するしかないのですが、「期待されていて発奮させるために殴った」という先生のコメントは事実なんだろうな・・と感じます。(暴力の内容は行き過ぎていると思いますが)。そして亡くなられた生徒さんは、怒鳴られ殴られる指導に非常にストレスを感じ、でもキャプテンという役柄上、簡単にやめるという選択肢にも飛びつけず、がんじがらめになってしまったんじゃないかなと。

大人からすれば、「辞めれば済む話じゃないか、命の方が大事だよ、もっと世の中色々あるよ・・」という話かもしれませんが、高校生の視野ではそんなふうに考えることが出来なかったんだと思います。。私も当時つらいとは思っても辞めることは全く考えませんでした。「頑張りたい」という気持ちもありましたが、今思えば、「ここで辞めてしまったら自分は落伍者になってしまうんじゃないか、もう上がってこれないんじゃないか」という強迫観念が存在していた気がします。大した強豪校でもない私ですらそうだったことを考えると、今回の事件のような強豪校のキャプテンだった彼の場合は、もっともっとその思いは強かったのではないでしょうか。

子どもはまだ視野が狭いということを忘れてはいけないと思います。
そして彼が死を選んでしまったということは本当に残念です。

体罰は劇薬

私が体罰がダメだと思うのは、体罰は劇薬だということです。発奮させることも、追い込んでしまうことも言葉よりも圧倒的に早いスピードと圧力で進んでしまうからです。殴ってガツンと指導した場合、ハマる人には言葉で言うより強烈にインパクトを与えて早く成長を促せますし、反対に合わない人には、強烈なインパクトで自信喪失、自己否定感を与えてしまいます。

同じことを言葉のみでやろうとした場合、一般的には、同レベルの発奮・追い込みレベルまで到達するのにもっと時間がかかります。成長に時間がかかるかもしれませんが、追い込まれる側からすると時間を稼ぐことができます。時間を稼ぐことができれば、周りが気づく余地も、自分が考える余地も、つらい時期をやり過ごす余地も生まれます。

体罰は、合う人にはめちゃくちゃ良い、合わない人には最悪、という劇薬です。親が子に殴ることすら少なくなっている昨今の事情を考えるとその劇薬度は以前より比較にならないくらい上がっていると思った方がよいと思います。そんな劇薬を、ただでさえ視野が狭くなりがちな高校生や中学生に対して処方するのはリスクも高く、適切ではありません。劇薬は、ルールはもちろん通念的にも、「教育の現場では使わない」としていったほうがよいと考えています。

「追い込む指導」と「楽にしてあげる指導」

体罰をしなくても、怒鳴ったり怒ったりして追い込む指導を子どもに対してすることにリスクは伴うと思います。

ちなみに、私が人生で二番目に尊敬と感謝をしている先生は、抱え込まないこと、楽に考えることを教えてくれた先生です。その先生は、大学の教授という立場でありながら、「人間なんていくら賢いと言ったって大したことない。大したことないんだから、できないことをみんなにさらけ出して、知を寄せ合って議論して真理に近づくことが大事なんじゃないか」と常日頃言っていました。「俺たちなんて、多少頑張ったってバカなんだから、みんなで寄ってたかってなんとかしようぜ」という感じですな。

先生が伝えたかったこととはズレているかもしれませんが、私はこの言葉を勝手に拡大解釈して、できない自分を責めることなく認めて、それをオープンにして、楽になり、かつ建設的に目の前のことに取り組むことができるようになった気がしています。

ぶん殴って指導してくれた先生が「追い込む指導」で、一つのことに集中し、必死で努力し、自分自身を強く、大きくすることを教えてくれたのに対して、この教授の先生は「楽にしてあげる指導」で、私の視野を広げ、私自身のちっぽけさ無力さを教え、そのサイズと強さでどう闘うかを教えてくれた気がしています。

体罰はもちろんしない前提ですが、「追い込む指導」をする場合には、同時にどこかで「楽にしてあげる指導」で逃げ道も作ってあげたほうがいいと感じます。自分を高めることを極限まで頑張ってみるけど、それに耐えられない、もうこれ以上高められない、競争に負けてしまう、・・・それでも全てが終わるわけじゃない、そのままの状態の自分で、別の目的やフィールドを探してそこで闘うこともできるんだ、そうすることで以前は想像していなかったような成長や充実感を感じることだってできるんだ、ということを教えたり、示唆してあげられる場や機会や人がいることがとても重要なんじゃないかと思うわけです。

 

こういう事件がもう起こらないようになることを祈っています。
というわけで今日はこの辺で終わります。

 



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「追い込む指導」と「楽にしてあげる指導」